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スタッフ紹介

農場長 藤原明生

伊根町の養鶏農家(三野養鶏)の次男として生まれる。

高校時代を愛農高校(私立愛農学戦農業高校)で過ごし、有機農業やコミュニティー生活を学ぶ。

卒業後も農業を志しながら、大工修行を行い、結婚を機に地元京都、伊根町へ戻り農場を開く。

現在7児の父、農場主として日々奮闘中

藤原音夢

愛知県の農家の長女として生まれる。

高校時代を愛農高校で過ごし、明生と出会う

卒業後、食と健康に興味を持ち食養法やフラダンスなど多彩な分野を追求する

結婚を機に夫明生の故郷、伊根町へ移住

子育てに奮闘しながら、農場運営の一手を担い、日々奮闘中

土の子農場の歩み ~野菜ボックス停止から振り返る~

京野菜の京水菜のJA出荷からスタート

気候に合った栽培のため、JAのハウス組合に入りハウスを建てました。JA出荷をしてハウス借入金を返し、そこから徐々に自分のやりたい農業の方向へ向かっていこうと考えていました。しかし、それはつちのこ農場の「小規格」と「無農薬」、「無肥料栽培」ではなかなか折り合いがつかず、完成した水菜は商品として受け入れられない苦しい時期が続きました。

長男の病気がきづかせてくれたこと

それでも朝早くから夜遅くまで出荷をしていた最中に当時4歳だった長男に激しい発作が出始めました。20分に1度30秒ほど走り回るという発作でそれが永遠と続くものでした。保健師や医療機関などに相談したり検査しても何なのか分からず、発症からひと月が経とうとする頃、最終的にてんかんと診断されました。

そこで初めて私たちは現状に行き詰まり、子どもたちにも影響が浸透していたのだとはっきりと気づきました。

それから私たちは自分たちのやりたい農業をしようと決意し、自分たちで理解し合える顧客と繋がり、家庭用の野菜BOX便を届けようと始め、10年が経ちました。

試行錯誤と変化を続ける畑

この10年で畑の様子や出荷する野菜の種類や野菜自体が随分と変化しました。

単品主体だった畑は多品目の畑へ移行しました。

単品栽培の水菜栽培では真夏にハウスを閉めきり土の上にビニールを敷いて熱で土を消毒をします。その影響で逆に熱さに強い雑草や菌が生き残り、水菜单品栽培の影響で水菜を好む虫が大量発生したりしていました。いくら無農薬、無肥料栽培を一生懸命やったとしても限界のある状態だと思いました。人間優位に手を加えれば加えるだけバランスが崩れていたのです。

そこで極力人間優位の基準で手を加えないことを重視して、土の環境や畑全体の環境の自然なバランスが整うようにすることに力を注いできました。

これまで集中豪雨による畑の浸水や、アプラムシの大量発生でアプラナ科の野菜はほぼ全滅だったり、ヨトウムシが増えたり。虫の食害によって野菜が苦味を出したり、キツい香りを放ったり。ダンゴムシやコオロギの食害、ネズミの食害など、平たんな道のりではありませんでした。

その反面、様々な雑草が生え始め、土を這うクモやカエル、トカゲが増え、野菜の花が咲けばいろんな種類の蜂たちが集まり芋虫が増えれば鳥が。ネズミが増えれば蛇やイタチが増え始め、徐々に生態系が多様化してきました。

就農から15年が経とうとしている畑は今、森のような畑になっています。基本的には不耕起で耕しません。そこは赤子から老人まで共存するコミュニティーのように、野菜自身が種を落とし、生まれ育ち命をつないでいます。同じ根から何年も育つブロッコリーもあります。生命力にあふれ、畑にいるだけで元気になります。

新たな転換地点に

そんな中野菜BOXを終了するに至ったのには、四男の病気に出会ったことがきっかけでした。長男の症状をきっかけに野菜BOXを始めたのですが、今回はもっと根元が深く、私たち夫婦が今後どう生きていきたいのかを立ち止まり、考えました。

私たちは直近3年間、よくよく考えれば長男の時から、怒涛に身内の健康や生死に向き合ってきました。お産をする、育む、死をみる、病をみる、特に私にとって大きなテーマでありました。

我が子の死から”真の平和とは”を投げかけられて、長男や四男の病やお養母さんの”病気”は何を言わんとしていたのかを問えば、「愛に生きなさい、自分に素直に生きなさい」です。

愛に生き、自分に素直に生きるのであれば、私は今は農業を停止して出来る限りの自給する暮らしの中で子育てをしたいと思いました。

夫は自分の求める方向に揺るぎなく突き進む人です。畑から人間優位の基準を捨てなさいと要求され続け、畑の意思に沿って試行錯誤しながらやってきたわけです。”汝の農場をもって神の栄光を表せ”という愛農精神を信念にしていました。

これまで日本の食糧自給率を支えたい、農業者として世界平和を築いていきたい、という思いで駆け抜けてきた人でありました。しかし、彼もこの15年のうちに平和はもっともっと自分の足元がら築くものだという視点に至っています。

土の子の農場はというと、普通一般的な畑とは全くかけ離れたところにたどり着き、生産主体の畑ではなくなりました。農場の活かし方を変えないといけない時でもあります。

土の子農場のこれから

土の子の今後の方向として、暮らしの自給率の底上げしていきたいと思っています。そして同じく自分の足元から土台をつくる、自給的に生きたい人に土の子の農場や経験をシェアして活かしていけるように。

願いとしては、ロシアのダーチャ(※)のように日本でも農のある暮らしの普及に力が注げたらと思っています。

土の子の畑が活躍する未来が待っていると思います。

※ダーチャ…ソ連末期の時代、政府は不安定な情勢や食糧不足から国民を守るため都市郊外に農園付き別荘用の土地が割り当てた。このためロシアでは都市生活を送る人たちが週末や長期休みに個々の農園を管理したり、自給自足的な生活を送ることができている。